芸術家、岡本太郎の名言集

・何も芸術家や文学者だけが行きづまってるわけじゃない。世の中の誰もが行きづまっているのだ。精神的な行きづまりは、芸術家だけの問題ではなくて、これは人間全体の問題だ。
・人間のほうが他の動物よりも進歩している存在にみえるかも知れないけど、不安や恐怖感を抱かずにはいられない、悲しい運命を背負っている。これから文明がさらに発達するにつれて、恐怖感を持つ人はもっと増えてくると思う。恐怖感は自分一人でなく、これは人類全体の運命なんだと思って、取り組んでいけば、意外に救われるんじゃないか。
・人は自分を客観視しているように思っていても、実は誰でも自分が好きで、大事にしすぎているのだ。自己嫌悪なんて、いい加減なところで自分を甘やかしていないで、もっと徹底的に自分と闘ってみよう。
・"いずれ"なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。"いずれ"なんていうヤツに、ほんとうの将来はありっこないし、懐古趣味も無責任だ。
・自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる"しあわせ"ではあり得ない。ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。
・「出る」のは固くて冷たい釘ではない。純粋な人間の、無垢な情熱の炎だ。
・両親の姿を見れば、自分の未来像もその背後にダブって見えてしまう。今日の若者のむなしさがそこにある。それからのがれようとすれば、自殺でもするか、スピード、セックスなんかで瞬間的に自分をまぎらわすか、以外にないだろう。
・何かスリルがあるとすれば、それはバスの窓越しに、他の世界のドラマとしてかいま見るだけだ。全体的、全運命的責任はとらないのである。
・だから、冒険が終わればまた非常に空しくなる。グジグジして、文句をつけたり、人のことが気になって陰湿に足を引っ張ってみたり、およそ空しい精神状態におちいってしまうのだ。
・一目見て、いかにも経営者、商売人だ。それ以外の何ものでもないというところに、人間の全体像を失っている現代文明、そしてこれからの運命が象徴されている。
・人生うまくやろうなんて、利口ぶった考えは、誰でもできることで、それは大変卑しい根性だと思う。世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。
・日常の小賢しい自分のままで、ぬくぬくと坐ったまま、つかめるはずがない。感動するということは背のびを強要されることだ。
・職能的に分化された芸ごとの趣味のことではない。今世間で芸術と思っているのは、ほとんどが芸術屋の作った商品であるにすぎない。
・システムによって動く現代社会、産業、経済機構のなかで、すべては合理的に、また目的化される。だから人々は疎外され、知らず知らずに絶望しているのだ。
・呪術は目的的のように見えていながら、人間の非合理的なモメントにこたえ、逆にいのちの無目的な昇揚を解き放つ力を持っていた。ところが現代社会では、呪術の目的的な役割だけが科学技術によって受けつがれ、拡大されている。
・実はみんなで知恵と労力と情熱を持ちより、苦労して手さぐりで準備しているとき、つくりあげていく過程がほんとうに生きがいだったと目を輝かせて話していた。それが祭りだ。無償の爆発。
・ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が残るか滅びるかという漠とした遠い想定よりも、今現時点で、人間の一人ひとりはいったいほんとうに生きているのだろうかということだ。
・今日はほとんどの人が、その純粋な生と死の問題を回避してしまっている。だから虚無状態になっているのだ。


岡本太郎、自分の中に毒を持てーあなたは"常識人間"を捨てられるかより)
www.seishun.co.jp

女性哲学者、池田晶子の名言集

・考えることは、悩むことではない。世の人、決定的に、ここを間違えている。きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。
・考えるという作用は、それ自体が否定の作用だから、自分の足に足払いをかけるようなことを平気でするのである。理性の永久循環運動。わかっちゃいるけどやめられない。
・「弁証法的統一」とは、統一するための方法ではない。統一が先に在るからこそ、その方法なのだ。
・「価値ある情報」そんなものはない。情報にあるのは損得だけだ。
・たとえばちょっと前、ニューアカデミズムとかポスト・モダンとかのブームがあった。私は全然信用しなかった。ああいうのは信用に値しないということくらい、すぐわかるのである。なぜわかるかというと、思想、哲学、つまり「考えること」、それを見事に「情報」という形で論じようとしているからだ。
・日頃己れの魂と接する仕方を知っていると、インターネットなんぞによらずとも、瞬時に、居ながらにして、「全宇宙を我が脳に」感じ考えられるようになるのですよ。
・「普遍的なものなど存在しない」と、この頃、人はよく口にする。しかし私は思うのだ、「普遍的なもの」とあなたはすでに言っている。「普遍的なもの」とあなたの言うそこに、普遍は見事に存在しているではないか。
・こういう人々こそがよく、ソクテラスの「無知の知」を口にする。「自分はわかっていないとわかっている」と彼は言った、逆もまた然り、と。そう言って彼は妙に安心するのだ。まさしく、これが変なのだ。わからないものに直面して、人は、驚きこそすれ、安心する道理はないはずではないのか。
・宇宙とは壮大なトートロジーである。人はこの疑問符によく耐えられない。
・宇宙大のトートロジーに耐えられなくなり、人類は「神」という言葉をもつ。最後にどこかで自分を「私」と言わなければならないように。
・どの自己?どの自己のことを人は、他人を蹴飛ばしてでも主張したいほど確実な自己であると信じているのか。
・「私」とは主観であり、客観としての自然とは別ものであると。すると、自然物であるところの脳であるところの「私」、これは主観か客観か。
・「生きなければならないから」と、人は言う。でも、なぜ?なぜ「生きなければならない」なのか、「なければならない」は誰が誰に貸している強制なのか、自分が生きることを他人が生きることのように言う、それが私には納得できなかった。
・社会の存在を自分の存在より確実なものだと、自分から認めているのだから、社会の存在に自分をどうこうされるのは、道理なのである。
・まあ哲学なんてのは、煎じ詰めれば、先に直感的に理解していることを、いかにうまく説明するかという方便にすぎないのだし。
・「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うそのことが、人を殺していけないまさにその理由なのである。イエス・キリストが「汝、殺すなかれ」と述べたとき、彼は規則や戒律をを述べたのではない。いかなる理由によってかこの問いを所持する、我々の思考のこの事実を述べたのである。
・救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言葉で何が言われているかを考えることのほうが、先のはずだからである。
・人がそれを信じるのは、それがウソだからである。ウソだからこそ、人はそれを信じなければならない。ウソでない本当のことなら、人は信じる必要がない、認めればすむだけだ。
・「汝の内なる道徳律が、普遍的に妥当するように行為せよ」。いかなる条件もなく、いきなり道徳それ自体を欲求せよ、と命令するカントの定言命法は、したがって、大ウソである。
・人は倫理的に行為することはできない、倫理的であることしかできない。


池田晶子、残酷人生論より)
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ドイツ人哲学者、マルクス・ガブリエルの名言集

・我々は、目の前の課題について真剣な議論をしていません。代わりにやっているのは、二分で終わるような儚い提案合戦です。
・普遍的な倫理観には、生物学的な基盤があります。我々は、もともとは皆同じ種だからです。だから誰かを攻撃するためには、彼らは自分たちとは違うのだと語るストーリーが必要です。
・ただ現実には、解決策ではなく特定のグループの人たちから人間性を奪う可能性についてばかり取り沙汰されます。
・投資するのはそこだけでいい、他の分野のことは忘れなさい、と。それが自然主義です。この考え方は他のいかなる考え方よりも人を殺しています。
イスラムの表象をテロリズムと関係づける一方で、たとえばキリスト教テロリズムとみなしません。
・一番人殺しをしているのはどの宗教かーー具体的な数字は言えませんが、おそらくキリスト教です。キリスト教帝国を築くために、どれだけの人が拷問を受け、殺されたことか。
シリコンバレーは一つの思考法です。単なる製品の寄り集まりではありません。信じられないほどパワフルな思考法です。
・さらに繁栄を享受すると、我々が自滅の道を歩んでいるようにはとても見えません。
・それこそが「末人」です。そういう意味で我々はまさにニーチェが描写していたシナリオ通りに生きているのです。
・民主主義は、実際に存在する裁判所、インフラ、税システム、官僚、役所など、そういうすべての機関の複雑なシステムです。それが民主主義の実体です。非常に緩慢で複雑な社会システムです。そういうシステムがあるおかげで、あなたは人権を享受している可能性が極めて高い。
・緩慢な官僚的プロセスが善であることを理解しなければなりません。
・非常に狭い部屋で70人もの他人と暮らしたくはないことは明らかです。民主主義はこの明白な事実を受け入れます。
・すぐれた民主主義はこうした明白さを尊重し、それに直面したときには否定しません。かたや、ひどい民主主義はこうした明白な事実を否定します。
・明白な事実はが何であるか、我々はまだ最終ステージには到達していないのです。
・それが「間違いか、否か」ということは誰が決めるのかーーそれが重要なところで、合理的な分析や、公開ディベートによって決まります。
・当選前に何か公約したのだとしたら、それは「そうなるよう努力します」という約束であり、必ず公約が果たされると言うことはできません。その時点では、公約が果たせるかどうかは候補者にもわからないのですから。
・人間の尊厳とは、人間という動物がその正体について考えることができる状況に置かれていることを意味します。
アメリカは非常に協力で非常に保守的な価値体系があります。結局のところアメリカは、全体的にとんでもなく保守的なコミュニティなのです。
・倫理資本主義は完全に可能です。このことを今まで提案した人がいない理由は極めて単純で、どの倫理学者も資本主義を批判しているからです。
フェイスブックはモラリティ(人間性の向上)を約束しましたが、その約束は実行されませんでした。提供したのはその逆です。彼らが提供したのは開放でした。誰もが自由になれるというものです。そうやって彼らは儲けたのです。
・実知識においては、厳しい集中力と散漫な思考の組み合わせが重要です。インターネットが我々にもたらすのは散漫な思考、ドラッグ中毒の子どもたちの精神だけです。それが人工知能というものなのです。
・同じ課題をより速く解決することができるシステムのほうが、より知的だということです。今私が抱える課題の多くはデジタル技術によって早く解決できるようになりました。
・検索アルゴリズムでは、最高の結果は得られません。最高に近い結果、最低ではなさそうな結果が出ます。
・現実では絶対に耳を傾けようとしない人の言葉を、オンラインでは鵜呑みにしてしまいます。実際にあったら、絶対信用しないであろう人のことを。
・「新しい実在論」は、すべての物事に対する実在論です。
・現実から離れることは、死ぬまでできません。死んだらそれで退場ですが、それは現実を離れることではありません。死んでいるということもまた非常に実在的です。
・それに偽の信念を持つことで現実から逃れるというのも無理です。そんなことをすれば、あなたの現実はあなたの過ち(error)になってしまいます。
・間違った方向に進むと、正しい方向に進んでいる人にやられてしまう。単純なことです。


マルクス・ガブリエル、世界史の針が巻き戻るときー「新しい実在論」は世界をどう見ているかより)
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