女性哲学者、池田晶子の名言集

・考えることは、悩むことではない。世の人、決定的に、ここを間違えている。きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。
・考えるという作用は、それ自体が否定の作用だから、自分の足に足払いをかけるようなことを平気でするのである。理性の永久循環運動。わかっちゃいるけどやめられない。
・「弁証法的統一」とは、統一するための方法ではない。統一が先に在るからこそ、その方法なのだ。
・「価値ある情報」そんなものはない。情報にあるのは損得だけだ。
・たとえばちょっと前、ニューアカデミズムとかポスト・モダンとかのブームがあった。私は全然信用しなかった。ああいうのは信用に値しないということくらい、すぐわかるのである。なぜわかるかというと、思想、哲学、つまり「考えること」、それを見事に「情報」という形で論じようとしているからだ。
・日頃己れの魂と接する仕方を知っていると、インターネットなんぞによらずとも、瞬時に、居ながらにして、「全宇宙を我が脳に」感じ考えられるようになるのですよ。
・「普遍的なものなど存在しない」と、この頃、人はよく口にする。しかし私は思うのだ、「普遍的なもの」とあなたはすでに言っている。「普遍的なもの」とあなたの言うそこに、普遍は見事に存在しているではないか。
・こういう人々こそがよく、ソクテラスの「無知の知」を口にする。「自分はわかっていないとわかっている」と彼は言った、逆もまた然り、と。そう言って彼は妙に安心するのだ。まさしく、これが変なのだ。わからないものに直面して、人は、驚きこそすれ、安心する道理はないはずではないのか。
・宇宙とは壮大なトートロジーである。人はこの疑問符によく耐えられない。
・宇宙大のトートロジーに耐えられなくなり、人類は「神」という言葉をもつ。最後にどこかで自分を「私」と言わなければならないように。
・どの自己?どの自己のことを人は、他人を蹴飛ばしてでも主張したいほど確実な自己であると信じているのか。
・「私」とは主観であり、客観としての自然とは別ものであると。すると、自然物であるところの脳であるところの「私」、これは主観か客観か。
・「生きなければならないから」と、人は言う。でも、なぜ?なぜ「生きなければならない」なのか、「なければならない」は誰が誰に貸している強制なのか、自分が生きることを他人が生きることのように言う、それが私には納得できなかった。
・社会の存在を自分の存在より確実なものだと、自分から認めているのだから、社会の存在に自分をどうこうされるのは、道理なのである。
・まあ哲学なんてのは、煎じ詰めれば、先に直感的に理解していることを、いかにうまく説明するかという方便にすぎないのだし。
・「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うそのことが、人を殺していけないまさにその理由なのである。イエス・キリストが「汝、殺すなかれ」と述べたとき、彼は規則や戒律をを述べたのではない。いかなる理由によってかこの問いを所持する、我々の思考のこの事実を述べたのである。
・救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言葉で何が言われているかを考えることのほうが、先のはずだからである。
・人がそれを信じるのは、それがウソだからである。ウソだからこそ、人はそれを信じなければならない。ウソでない本当のことなら、人は信じる必要がない、認めればすむだけだ。
・「汝の内なる道徳律が、普遍的に妥当するように行為せよ」。いかなる条件もなく、いきなり道徳それ自体を欲求せよ、と命令するカントの定言命法は、したがって、大ウソである。
・人は倫理的に行為することはできない、倫理的であることしかできない。


池田晶子、残酷人生論より)
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